為に生きるとは

為に生きるとは


長年、孝進様のもとで侍らせて頂いて、為に生きるという事はどういう事なのかということを、考えてみたい。


為に生きるとは、何か特別なことではない。もし、人間が堕落しなかったなら、為に生きるという言葉さえも存在してはいなかったなずである。為に生きるとは、堕落した今の私達が生み出した、本来の人間のあるべき姿と比較して生まれてきた言葉であろう。そう、為に生きるとは、実はこの自然の森羅万象を見れば、ありとあらゆるところで苦もなく楽も無くただ普通に行われている行為である。そのことについていけない生き物が、困った事にこの堕落した人間であるわけである。


現世の人間が為に生きるという事は、再び善の道に戻ろうとする行為であるが故に、苦痛以外の何物でもない。もちろん、良心の喜びの中に浸ってゆける人々は、幸運であるのだが、人口の比率でみればわずかな人々であるにちがいない。


孝進様の事を考えれば、為に生きるという事は、何か特別の事でもなく、当たり前の事であった。考える前に、そのように生きていた人生であった。長い間、一緒に生活して感じた事は、孝進様の目は、私達のような目ではなかった。孝進様の目はまるで、自然界に生きる動物のようであった。私達は、物事を常に自分の損得勘定で評価する。自分の為になりそうでなければ、徳と考え、自分の為にならないと感じれば、損ととらえる。それは、私達には、実に普通の事であるが、孝進様と比較すると、その部分が決定的に違うと言える。


その違いを、私は孝進様の眼光に感じたのである。目に顕われていたのである。目に「裏」がないのである。「裏」というのは、裏の思いということであるが、私達は常にそのことを口に出さずに、常に頭の中でやっている。そして、損得の天秤にかけ、判断をしているのだ。しかしながら、孝進様の場合は、私達のような損得天秤がなかったのである。常に、目の前に入る人を勇気づける、元気をもたせる、あるいは、叱責し激励した。自分がどう評価されるかという事は、一切考えず、常に自分でない誰かのことに気を揉んでいた。それは、裏を返せば、損得の天秤が無い状態と言えよう。そして、孝進様の場合は、それが特別な事ではなく、実に自然に、まるで野山の動物が、お腹がすいたから刈りをするように、自然なことだったと思う。損なことは、誰でもやりたくないはずだ。しかし、孝進様の場合は、損であろうが無かろうが、他の為に正しいことと思ったら、どこまでも突っ走っていかれたのである。それは、第3者から見て、非常に奇異に映ったはずである。


孝進様の歌詞を、かいま見れば至る所に、その姿勢を伺うことができる。それは、お父様の為に、自分は捧げものになったということである。言い換えれば、自分の全ては、お父様の為に存在し、生きうる限り、お父様の夢を実現するために最大の努力を果たそうとされてきたのである。そしてそれは、何か特別の事でもなく、当たり前の、全く誇るようなことでもないこととして、謙虚に生きられたのである。

トラックバック(0)

トラックバックURL: http://118.82.86.238/cmt/mt-tb.cgi/78

コメントする

最新情報

Hyo Jin Moon スピーチ集 出版迫る!(2)
Hyo Jin Moonスピーチ集『永…
Hyo Jin Moon スピーチ集 出版迫る!
近じか、Hyo Jin Moonのスピー…
HYO JIN MOON Fan Channelをリンクしました
HYO JIN MOON Fan Cha…